「哲学の木」騒動に思う
2016年02月26日 - 日々の暮らし
美瑛でもっともシンボリックな木「哲学の木」が2月24日に地主さんによって倒された。
というニュースがSNSで賑わっているのを見て、なんだか心がざわついている。
このことに関して、個人的に
大きく2つ勘違いがあるんじゃないかなあ。と感じる。
まず「哲学の木」と呼ばれたポプラの木は、いつ倒れてもおかしくない老木だった。
顧みれば私が初めて美瑛を訪れた26年前にはすでに哲学の木と名が付いていて、大きな立派な木だったのだから。
その木が果てて倒れ被害が起こる前に、雪のある時期に倒された。
倒されたことを「残念だ」と感じるのは仕方ないけど
そこには、いつまでもそこにあるものという思い込み・勘違いが含まれている気がしてならない。
この世に存在する全てのものが、永遠にあるはずなどない。
建物だって鉄道だって、人間だって、永遠に存在するものなんてない。
だから今を大事にし、写真に撮るのだ。写真は今を記録することしかできない。
哲学の木は腐って倒れてしまう前に、倒され、写真にもあったようにトレーラーで運ばれていった。
材木になるのか、チップになるのか、パルプになるのか分からないが、
おそらく木として有効な使われ方をして、天寿を全うするのだろう。
今まで残してくれて、ありがとうと地主さんには感謝したい。
いい眺めをつくってくれていた哲学の木にも感謝したい。
そして、哲学の木を倒させたのは、一部のマナーの悪いカメラマンや観光客のせいだという圧倒的な意見。
その裏側に見えるのは「自分はマナーを守る正しい人間、品行方正なカメラマンだ」というエゴと勘違い。
悪を立てて、自分の正当性を明確にしようとする今の風潮にぴたりとあてはまる。
もちろん敷地内に入り込んで撮るのは完全NGな行為だけど
この木に群がって来ては撮るカメラマン全てが迷惑だったってこと。
ひどいときは数珠なりの路上駐車。そのカメラの放列の一員であるにも関わらず、
マナーを守ってる側の正しい人間だと言い張ることができるのだろうか。
自分を含めて、カメラマンはみな同罪じゃないか。
絵になる木の写真を披露してきたことも、その地に多くの人を向かわせた一因に繋がっているのだし。
車で撮影ポイントをぐるぐる周り
曲がりくねって狭い道の多い美瑛で、路駐して写真を撮る。
格安になったレンタカーが後押ししている。
それ自体がもう地元の方の迷惑になっていることに気がついていないのだろうか。
写真を撮るということは、己の満足を得ることとほぼ同義。
そしてその行為も、対象物が個人所有であればなおさら、迷惑な行為。
「にも関わらず撮る」のなら、迷惑をかけている自覚が必要だし、最大限の配慮が必要だろう。
美瑛を愛するならば、たとえば、公共の駐車場に車を駐めて、付近を歩いて廻って撮るってのはどうだろう。
歩いて踏みしめて汗かいて深く息を吸い込んでこそ気づくこと、見えるものがあるように思う。
効率優先で車で廻って、車窓から見えた良さげな光景、SNSで見たことのある景色に、車を駐め、車道から70-200mmの望遠ズームで切り取った写真。それもピントは無限遠。そんな安直な写真はもうすでに溢れるほどに存在している。
美瑛町では、フットパスの整備は遅きに失してしまっているが、
小径を歩きながら美瑛を楽しむというガイドがあってしかるべきだと思う。
また通学バスの空き時間を利用して、小ぶりな巡回バスを走らせる手もあるだろう。
そこにガイドが案内してくれればなおいい。
もうこれ以上の車の流入を抑えて、「歩いてスローに味わう場所」というひとつの指針を示すべきだと思う。
効率優先、大量消費のしわ寄せが、シンボリックな木の伐採や撮影禁止処置へとさらに繋がっていく気がしてならない。
余談が多くなってしまったが
写真を撮るという行為は、その多くが自己満足を得るためのもので
他人にとってははた迷惑なことだということ。
家の庭に咲く花を撮ってるならいざしらず
決して高尚なご趣味ではないってことだ。
自戒を込めて。
というニュースがSNSで賑わっているのを見て、なんだか心がざわついている。
このことに関して、個人的に
大きく2つ勘違いがあるんじゃないかなあ。と感じる。
まず「哲学の木」と呼ばれたポプラの木は、いつ倒れてもおかしくない老木だった。
顧みれば私が初めて美瑛を訪れた26年前にはすでに哲学の木と名が付いていて、大きな立派な木だったのだから。
その木が果てて倒れ被害が起こる前に、雪のある時期に倒された。
倒されたことを「残念だ」と感じるのは仕方ないけど
そこには、いつまでもそこにあるものという思い込み・勘違いが含まれている気がしてならない。
この世に存在する全てのものが、永遠にあるはずなどない。
建物だって鉄道だって、人間だって、永遠に存在するものなんてない。
だから今を大事にし、写真に撮るのだ。写真は今を記録することしかできない。
哲学の木は腐って倒れてしまう前に、倒され、写真にもあったようにトレーラーで運ばれていった。
材木になるのか、チップになるのか、パルプになるのか分からないが、
おそらく木として有効な使われ方をして、天寿を全うするのだろう。
今まで残してくれて、ありがとうと地主さんには感謝したい。
いい眺めをつくってくれていた哲学の木にも感謝したい。
そして、哲学の木を倒させたのは、一部のマナーの悪いカメラマンや観光客のせいだという圧倒的な意見。
その裏側に見えるのは「自分はマナーを守る正しい人間、品行方正なカメラマンだ」というエゴと勘違い。
悪を立てて、自分の正当性を明確にしようとする今の風潮にぴたりとあてはまる。
もちろん敷地内に入り込んで撮るのは完全NGな行為だけど
この木に群がって来ては撮るカメラマン全てが迷惑だったってこと。
ひどいときは数珠なりの路上駐車。そのカメラの放列の一員であるにも関わらず、
マナーを守ってる側の正しい人間だと言い張ることができるのだろうか。
自分を含めて、カメラマンはみな同罪じゃないか。
絵になる木の写真を披露してきたことも、その地に多くの人を向かわせた一因に繋がっているのだし。
車で撮影ポイントをぐるぐる周り
曲がりくねって狭い道の多い美瑛で、路駐して写真を撮る。
格安になったレンタカーが後押ししている。
それ自体がもう地元の方の迷惑になっていることに気がついていないのだろうか。
写真を撮るということは、己の満足を得ることとほぼ同義。
そしてその行為も、対象物が個人所有であればなおさら、迷惑な行為。
「にも関わらず撮る」のなら、迷惑をかけている自覚が必要だし、最大限の配慮が必要だろう。
美瑛を愛するならば、たとえば、公共の駐車場に車を駐めて、付近を歩いて廻って撮るってのはどうだろう。
歩いて踏みしめて汗かいて深く息を吸い込んでこそ気づくこと、見えるものがあるように思う。
効率優先で車で廻って、車窓から見えた良さげな光景、SNSで見たことのある景色に、車を駐め、車道から70-200mmの望遠ズームで切り取った写真。それもピントは無限遠。そんな安直な写真はもうすでに溢れるほどに存在している。
美瑛町では、フットパスの整備は遅きに失してしまっているが、
小径を歩きながら美瑛を楽しむというガイドがあってしかるべきだと思う。
また通学バスの空き時間を利用して、小ぶりな巡回バスを走らせる手もあるだろう。
そこにガイドが案内してくれればなおいい。
もうこれ以上の車の流入を抑えて、「歩いてスローに味わう場所」というひとつの指針を示すべきだと思う。
効率優先、大量消費のしわ寄せが、シンボリックな木の伐採や撮影禁止処置へとさらに繋がっていく気がしてならない。
余談が多くなってしまったが
写真を撮るという行為は、その多くが自己満足を得るためのもので
他人にとってははた迷惑なことだということ。
家の庭に咲く花を撮ってるならいざしらず
決して高尚なご趣味ではないってことだ。
自戒を込めて。
nobody_snowy
2016年02月23日 - スナップ
写真集「ASIAN PARADISE」発売
2016年02月16日 - お知らせ




(c)Tatsuo Iizuka
北海道歌旅座JUNCOとフォトシーズン飯塚達央がタイでセッションしたDVD付き写真集「ASIAN PARADISE」が発売になりました。
空と海が同じくらい青い小さな島や、うっそうとした密林の中、あるいはバンコクの孤児院や雑踏の中で撮影した写真です。
歌唄いJUNCOの魅力はもとより
アジアの暑さと、熱気と、ほっとするようなひとときを感じていただけると思います。
「海に出よう」「エイジアン・パラダイス」の2曲の楽曲DVDでは、ドローンを駆使した映像(映像作家:元起丈晴、タイSUNNY撮影)とともにJUNCOの歌声も堪能できます。
特に「海に出よう」は、飯塚が大好きな曲。JUNCOの腹から溢れた歌声が心に響きます。
A4横サイズ36ページ。2,500円。北海道歌旅座のオンラインショップで送料無料でお届けできます。
ぜひお手元に置いてください。
オンラインショップはこちらです。
http://utatabiza.cart.fc2.com/ca5/63/p-r-s/

毎年冬に児童達に写真の楽しみを実感してもらおうと、小学校4年生を対象に「写真ワークショップ」を行ってます。
キャノンEOS KISS X8iを4〜5人のグループに1台持たせて、東川の町に繰り出し遊びながら2時間撮影し、後日セレクト、そして発表会も行います。写真のまち、ならではの取り組みですね。
今、その児童達の撮った写真を全部見ています。その数なんと7,000枚ほど。データー量は22GBくらい・・・。
約60人で2時間くらい撮った成果です。
撮った写真数=興味を持った数と考えると、子供の好奇心って凄いですね。
1人あたり116枚=2時間で116コの興味・感心ってことですから。
出かける前に教室で「写真って何だー?」ってことと、カメラの使い方なんかを話すんですけど、みんな興味深く聴いてくれてるなあーと本人は思ってたら、背中向けるとこんな感じなんですね・・・。
「あー話が長いなあ〜早く撮りに行きたいよ〜〜」って感じでしょうか(笑)
写真は嘘つきませんね。それも写真の面白いところです。
(児童が撮った写真の中に入っていたものです。)

(c)Tatsuo Iizuka
たまに使うと、はっとさせられるR-D1sの写り。
600万画素しかないのに、そこにあるという確かな感触を得られる。
今、AF廻りや超高感度性能、そして4K動画などの機能がてんこ盛りになっていく
ばかりの新しいデジカメ。
使わない機能もいっぱいで、コストを抑えるための代償として造作がチープで
写りもいいんだか悪いんだか・・・。
高解像度に耐えうる高級レンズは、AFの高速化や手ぶれ補正組み込みで、肥大化していく一方。
自分に合うカメラを現行機種のラインアップから見つけるのは、なかなか困難な時代になっている。
そんな気がするが、皆さんいかがでしょう。
北海道/東川町
EPSON R-D1s + G Biogon 28mmf2.8




(c)Tatsuo Iizuka
かつて札幌と留萌本線の石狩沼田駅を結んでいた札沼(さっしょう)線は
昭和47年に新十津川〜石狩沼田間が廃止されると、新十津川駅が終着駅となった。
終着駅といっても線路一線、ホーム一線のこれ以上ないシンプルな構造だ。
札沼線の札幌近くは電化もされ、「学園都市線」の名称で近郊輸送に忙しい区間がある一方、
末端に進むと、ディーゼルカー一両で十分事足りる赤字ローカル路線に格落ちしてしまう。
浦臼駅より先、ここ新十津川駅までの区間の列車は、現在一日朝、昼、晩の3往復があるのみだが
この春のダイヤ改正で、一日1往復へと減便されることとなった。
ダイヤは朝の一本のみ。
終着新十津川駅に着いた列車は、そのまま折り返していく。
つまり新十津川駅の住民が朝、列車に乗って出かけても、その日は列車に乗って帰って来ることが出来なくなる
ということ。
一日一便というのは、究極に利用しにくい運行形態だ。
夜の新十津川駅に列車が来るのも残り2ヶ月弱。
駅舎に灯りが灯ることもなくなるだろう。
この夜、到着列車から降りる人も、出発する列車に乗る人も居なかった。
札沼線/新十津川駅
SONY α900 + Minolta AF85mmf1.4G COSINA PLANAR 50mmf1.4 ZS
SONY α7s + SUMMILUX35mmf1.4 ASPH.



(c)Tatsuo Iizuka
好きな駅のひとつ。
10年ほど前に初めて訪れたときは、改札口が雪に覆われそうになっていて
ホームに立ち入るのを拒んでいるかのようだった。
こ、これが駅か・・・
と衝撃を受けた。
無人の駅舎内には、かつてここにあった炭鉱の様子を描いた大きな絵が掲げられている。
飾ってあるというより、掲げられたままという感じ。
いにしえの栄華を偲ばせる佇まいは、ほかにも随所に。
昭和56年に石勝線が開通して以来、ローカル線に成り下がってしまったが、
かつて道央と道東を結ぶ重要路線だった根室本線。
その主要駅。
雪の重みに耐えて、これからもそこに有り続けて欲しい。
根室本線/茂尻駅
LeicaM8 G Biogon28mmf2.8
日没 blue moment
2016年02月02日 - α7s
midnight train
2016年02月01日 - 鉄道のある風景